静悟の文学的空間

小説、読書感想、宮座賢治などについてのブログ

インディゴチャイルド

とある公園での目覚め

目覚めるとすぐそこに大木が存在していた。

(大きいな。樹齢何年なんだろう?)

てっぺんが見えない程とても高くて分厚い幹の立派な樹だった。幹の部分に手を当てて彼の鼓動を探ってみる。とても深い叡智がこの樹には刻まれている気がした。しかし、僕程度の能力ではそのくらいの事しか分からなかった。一応家に居た頃もヒーリングの講習には通っていたけど、僕の能力はまだまだ殻さえ破れていない卵のようなものだ。ただ何となく何らかの太古からの記憶が宿っているような気がする。

新聞紙で暖を取っていた身体をゆっくりと伸びをしながら、慎重にほぐしてゆく。徐々に体は元の暖かさとしなやかさを取り戻していった。

(そうだ、僕は昨日この公園で一夜を明かしたんだった)

すっかり目の前の大樹に心奪われて現在の自らの状況を忘れていた。

辺りを見回すと木々の間から程良い感じの朝日が差し込んできているのが見えた。今は大体6時くらいだろうか、とても清々しい朝だ。目に映る色とりどりの樹木達の葉はどれも朝日を反射していて美しい。

(この公園にしばらくいてみるのも悪くないかもしれないな)

そんな事を思いながら、取りあえず気が向くままにこの辺りを散歩してみることにした。昨夜はこの公園に到着したときは暗くて辺りを十分に見て回ることが出来なかったから、まだこの広い公園内のどこに何があるか分からない。どこかに案内板はなかったろうかと思いながら、キョロキョロと、視界に入る植物たちを観察しながら歩いていると、小鳥達の鳴き声がすぐ近くで聞こえてくる。なんだか、家の周囲の小鳥たちとは少し違った風に聴こえた。

広い通りに出ると、早朝ランニングをしている人や犬の散歩をする女性に時々遭遇する。彼等のように健康的な生活を送っている人たちとの遭遇は、朝の清浄な空気と共に、実に僕を爽快な気分にさせてくれた。僕のようなホームレスの人間がテントを張っている姿は見えないけれど、なんとなく僕はもう大丈夫だと思えたのだった。だってこれだけ遠くに来たのだもの。僕を苦しませるような存在はもういない。


10分ほど歩いた交差点の付近に案内板を発見した。見た所、僕が昨日一泊したベンチは広場のすぐ近くだったらしい。多分その広場付近は休日は子供達や家族連れでごった返すのだろう。他に気になる園内スポットは、ここから15分ほどのところにある憩いの池という所。確かネットで調べたところ、ここで鹿や鴨が見れることが見れるらしい。早速行ってみよう。

(早朝の人気のないこの時間帯なら動物達の姿も見れるかもしれない)

とそちらへ足を向けることにした。身体の冷えを若干感じながらも、徐々に陽が昇ってくるに連れて暖かくなってきた。

さっきから歩きっぱなしだったので、気が付かない内に疲労が蓄積したのだろう、右足のふくらはぎに少しだけ痛みを感じた。何度か立ち止まって、左右に立ち並ぶ樹々を興味深く観察しながら、何とか歩き続けているとようやく憩いの池にたどり着いた。

東屋に腰掛けて池の様子をぼんやりと眺めていた。鴨は泳いでいるが、今の所鹿の姿はお目にかかれていない。5羽の鴨のうちの1羽は別の方向へ泳いでゆき、僕はその鴨の足の動きに何となく目を惹かれた。一匹だけ他とは違う泳ぎ方をしているのだ。

(何だか僕みたいだな。群れからはぐれた一匹狼か・・・)

学校にいた頃から浮いていた僕は動物の群れを見ている時何時も此のような思考に至る。大丈夫、僕は一人でも生きて行けるさ。そのための第一歩としてこの地へやって来たんだもの。

多分昨日の長旅の疲れがまだ残っているのだろう。憩いの池を堪能した後、疲労した肉体を休めようと、ベンチを求めて周囲を見回すと、池の西側に木製のベンチを発見した。そろそろとベンチに近寄りながら、やっぱり鹿はいないのかなと、奥の森の方をなんとなく眺めてみるが、僕にはその気配さえ察知することが出来なかった。水自体はそんなに透明ではないように見える。水面より鴨を視界に入れながら正面の木漏れ日をただ眺めることにした。やはり日の光で透き通る葉が自分は好きなんだなと思い、自分で自分の好みを再確認した。特に透けて見える黄緑色の葉に興味を惹かれる。

(ああ、なんて美しいんだろう)

僕はこれから自らの感受性を伸ばしてゆきたい。不思議なことや美しい自然の中で生きてゆきたい。今までの僕はもうさよならだ。

その後、しばらくただベンチで過ごしていると、鴨は遠くへ泳いでいってしまった。僕もそろそろ移動しようかと腰を上げようとした時、目の前のベンチに誰かいるのに気がついた。

(あれ、向こうにもベンチがあったのか)

となんとなく目を向けていると、その少女も僕の方を見た。年は僕と同じくらいに見える。少女は片手にスケッチブックをもって何やら一心不乱に描いていた。

(平日のこの時間帯にいるということは学校は休みなのかな)

と思いながら、のどが渇いてきたので、池から移動して荷物の置いてある昨夜のベンチへとあるき出した。

(僕もあの静かな池をスケッチしてみようか。・・・そうだね、それも悪くない考えかもしれない)

置きっぱなしにしておいたリュックサックから水を取り出して、ゴクゴク飲んでいると空になってしまったこと気づく。これで持ってきた水分は全部飲んでしてしまった。どこかに水道はないものだろうか?

先程の案内板の内容を思い出してみたが、確かあそこにはそのような情報は書いていなかった気がする。でもまあその内見つかるだろう。

(さて、どうしようかな。ひとまず今日は屋根のあるところで一泊したいから、ゆっくりでいいからどこか泊まれる所を探そう。そしてお金もあることだし、どこかでのんびり過ごそう)

スマホで近場を調べてみると、この近くに博物館があるようだった。ホームページによると丁度今、鉱物展覧会というものが開催されているらしく、興味があるから行ってみることにした。後少しで開館らしいから丁度良い。とりあえず一旦ここから離れようと公園の出口を目指す。今夜の宿はまた後で考えよう。

一旦車道に出るとまだ早い時間帯だけど、結構車の音が騒がしい。確か近くにパン屋があったはずなので、そこで安めのパンを買おう。

信号を渡ったところに、そのパン屋はあった。小規模ながらもなかなか感じのいい店で美味しそうなパンが色々と置いてある。入店してみると袋に2つ入ったくるみパンが100円と安めだったので購入してみた。焼き立てらしくとても柔らかくて美味しそうだった。そして実際に頬張っていると、くるみが良いアクセントになっていてパンだけの食事でも満足感を得れたのだった。

(うん、今日もいい日になりそうだ)

そのまま道なりに進むと左手の方にお目当ての博物館が見えてきた。まだ開館まで5分ほどあるが、近くのベンチに腰掛けて待っている人がちらほらと見受けられる。料金表によると15歳までは200円で入れるようだった。入り口をウロウロしながら入ろうかどうか迷ったものの、結局入ってみることにした。

中は暗めでシンとした静けさに身を包まれた。入り口からすぐのところに化石がずらりとならんでおり、象の頭蓋骨や貝の化石を興味深く見てゆく。やがてそれらを通り過ぎた辺りに、今度はただ広い空間に鉱物たちがずらりと並んでいた。手前の方から見てみると、様々な形のクリスタル達がまず立ち並んでいた。ケース越しでは今ひとつ伝わってこないが、このざらざらとした白い感じが僕にとても良い感覚を。出来たら石を直接手にとって見てみたいものだなと思いながら、夢中になって鉱物達に魅入られていた。

隣に移動すると次はアメジストが置いてあった。その美しい透明な紫色に感心しながら、一列に並べられた雲母やオパールなどを次々に見て回った。

(ああ、楽しいな。本当に来てよかった)

地方の博物館がこれだけの数を揃えられるなんて不思議だなと、内心意外に思いながら、反対側のケースに移動すると、今度は黒曜石が並べられていた。目の前の解説には古代の原始人達による黒曜石の活用方が書かれていた。歴史の授業でも習ったけど、縄文時代に石器に使われていたように黒曜石って見た目が綺麗なだけの石ではないんだよね、と心の中では思っていた。

(それにしても、本当ここに来てよかった、色々と勉強になった。やはり博物館巡りは楽しいものだ)

更に奥に進むと鉱物に関する映像がテレビで流れていて、小さな映画館のような感じがした。誰もいないので真ん中辺りに座り、流れてゆく映像と女性の声が鉱物の解説をしてゆくのに聞き入っていた。気がつくと結構人が増えてきたのか館内がざわついてきたようだ。そろそろ行こうかな、と思っている内に丁度映像が終わったので、そろそろ博物館を後にすることにした。通りを歩いていると、だんだんと先程より人通りが増えているのを感じながら、少しどこかで休みたくなってきたので、再びスマホでこの近辺を調査してみると

「森の美術館」

というページが目に留まった。詳しく見てみるとカフェなんかも入っているようだ。しかし現在地からは少し遠くて歩いていくのは難しいだろう。辺りを見回してみるが、バス停や駅は一向に見当たらない。少し考えた結果、大通りまで歩いてそこでタクシーを拾おうと思ったのだった。


森の美術館

その後、僕は大通りに出てタクシーを拾い、ネットで見つけた次なる目的地、菱形美術館へと向かった。確かにその美術館は森の中にひっそりと建てられていて、別に神社のような鎮守の森に囲まれてはいないが、俗世から切り離された空間という感じがした。森の小径を5分ほど進むと、辺りの木々が発するフィトンチッドに心身共に癒やされてゆくのを感じた。やっぱり自然の中にいるのはいいものだな、と思っているとようやく美術館の建物が見えてきた。

美術館自体はそれ程大きくはないが、森の雰囲気に合う落ち着いた感じの外観だった。入館料を払って中に入ると、ずらりと作品が並んでいるのでとりあえず手前の方から順に見てゆく。スマホで調べてみた所、今回の個展の柊譲という人物は気鋭の新人と呼ばれる作家らしい。

5枚ほど見ていくと、どうやらこの作家は植物を好んで描いているらしい事が分かった。高いデッサン技術に裏打ちされた植物や山、池や動物。たまに人物画も展示されている。あいにくと僕は存じ上げなかったのだが、この人は中々いい絵を描くなあと思った。

蓮や睡蓮やタンポポスノードロップなど様々な季節の植物の絵が展示されている。どの絵も実に写実的というかすごく細部まで丁寧に実物をそのまま描いたというような描き方だった。一通り見終えて別の部屋へ移動すると、作風が変わって山や川の風景画が並んでいた。それにしても、本当にリアルな描き方をする人だなと思う。非常に細部までこだわったこの描き方を僕は好ましいと感じながら楽しんで見て回っていた。少なくとも僕の知る限りここまで実物に近い花の絵は見たことがなかった。山や川の絵にもその傾向は見られていたが細かく写実的に描くこの作家の性格を非常に好ましく感じ、僕もこんな風に描けたらなと思うのだった。

花の絵が単体で描かれている事が多かったのに比べ、こちらの絵では構図がなかなかいい。山が奥に描かれ手前を流れる川やそこに集まる動物達、また他の絵では何枚か花壇などの絵も見事に描かれていた。色々な事に興味のある人だったんだな。

結構いいな、この人。名前を覚えておこう。

ええっと、何ていう名前だったかなと思いながら、スマホを操作しつつ、次の部屋へ入ってみるとぽつりぽつりと人物画が展示されていたのに驚いた。風景画ばかりだったので最初は少し驚いたが、しかし

(人物を全く描かない画家の方が珍しいものな)

と思い直した。その人物画に近づいていくと、どうも先客がいたらしく一人の男性が絵の前のベンチに腰掛けて正面の絵をじっと眺めていた。目の前の椅子に座ってじっとその絵を眺めている。僕も後ろの方からその絵を眺めてみた。それは女性の絵だった。黒髪でしゃがみながら花を撫でる若い女性の絵。その横の絵では同じ女性が座って正面を見ている。この女性は画家とどういう関係なのだろう。ただのモデルなのかな。辺りを見回すが、これで全部見終わったらしい。戻ろうかと出口の方へ足を進めながら先程のじっと同じ絵を眺めている男性をちらっと横目で見ると、彼は涙を流していた。僕はその様子に驚いたけど、何となくそのまま歩いて出口から出て館内のロビーで自販機で購入したジュースを飲んでいた。彼は何で泣いていたんだろう?

大いに満足した博物館と美術館の後少し疲れたので、休憩しながらぼんやりと考えていた。そういえば、最後に絵を描いたのいつだったかな?もう何ヶ月も下手をすると半年ほど描いてないかもしれない。以前は呼吸のように描くのが当たり前だったのに、何故いつから描かなくなってしまったのだろう。それにしても、この作家は何という名前なんだろうかときょろきょろと情報を求めて辺りを見回していたがロビーにはそれらしきものはなかった。入り口に書いてあったかなと、もう少し休もうと思っていると、先程の男性が出口から歩いてくるところだった。彼の目にはもう涙は見えず、逆に朗らかさを感じさせる表情でにこやかに歩いていた。僕はその様子を不思議に思いながらも、そろそろ行くかと美術館を出ることにした。入り口には戸羽美崎個展という看板が立っていた。やはり聞いたことのない名前だ。

最近有名になってきた人かもしれないと思いながら、森の小径を歩きつつ、移動するのにタクシーかバスのどちらにしようか迷っていると左手に鳥居が見えてきた。来るときは全然気が付かなかったがどうやら小さな神社があったようだ。ちょっとだけ覗いてみようかと鳥居をくぐって境内へ足を進めてゆくと静かに佇む巨大な御神木に目を奪われた。よく見るとそれ程の大きさがあるわけではないが、その逆に自らを主張しないような静かな雰囲気に惹かれた。境内全体は小ぢんまりとしていながらもバランス良く整っていて、人がいないせいか神聖な雰囲気を醸し出している気がした。手水舎で喉を潤し授与所の護摩などを眺め歩き本殿で鐘をならし参拝し、心の中で願った。「この心清浄にしてください」と。

スマホのオーダー通りの時間で到着したタクシーで今日のところはホテルで休むことにした。僕としては出来れば寺や旅館の素泊まりの方が僕好みなのだが、生憎とここからは離れているようだった。到着したホテルは安めの宿泊施設にしては中々清潔な建物だった。部屋に案内されるとすぐさまベッドで横になって天井を見上げた。忌まわしき故郷を去ってから3日目か・・・。結構遠くまで来たと思っていたが、まだ今ひとつ記憶が抜けないな。物理的な距離はそこまで重要ではないということか、あるいは時が解決するのかもしれないが。そのままうとうとと横なっていて、気がつくと窓の外は暗くなっているようだった。グシャグシャと髪を整えてから、ぼーっとした頭のまま夕食を取りにレストランへ行くことにした。小さなレストランで何も言わずに席に座っているとすぐに料理は運ばれてきた。宿泊客自体少ないのだろう。丁度よい時間なのに客はほとんど見当たらない。しかし安めの宿代の割に結構立派な料理だと思った。美味しそうな品がちょっとずつ上手に盛られている。窓の外で見知らぬ町並みを眺めながら食事をしつつ、後どのくらいこのような毎日が続くのかなとぼんやりと考えた。

食事を済ませてロビーのベンチでガイドブックを見つけて読んでいた。あの美術館はやはりそれなりに知られたスポットらしい。温泉や有名な神社や寺の情報は載っているものの、それらにはあまり興味が惹かれなかった。人が多いのはどうにも苦手だ。まだそれなりの金額は手元に残っているものの、どこか落ち着ける場所を探したほうがいいかなとしばし思索を巡らせてみた。やはり住むなら自然の多いところがいいかな。そこで僕になにか例えお金に結びつかなくても何か出来ることがほしいと思った。自然の中で僕にできる事は何かないかな。そんな事を考えながらガイドブックを元あったところに戻し、部屋に戻ってもうちょっと考えてみよう。

シャワーを浴びて、湯船に浸かっているとまた思考が巡る。この近辺で自然がある場所は昨日泊まった公園くらいらしいので、明日は遠出する必要があるかもしれないな。いっそのこと山の中がいいのかもしれない。

一応持ってきておいたパジャマに着替え、ごろりとソファで宮沢賢治の詩集を読んでいると、彼の羅須地人協会での生活が浮かんだ。原始人のような暮らしぶりだったと言われている。農業はやりたくないけど、自然生活というのは惹かれるものがあるな、どこかの山が僕を招き入れてくれないだろうか。そんなことをつい考えてしまった。

 次の朝大体8時位に目が覚めた。やはり昨日は相当疲労が溜まっていたのだろう。朝日を浴びながら伸びをすると身体が若干痛んだ。確か朝食は9時までに入店だったかな。ソファでただ静かに5分ほど目を閉じていた。それから少し荷物をリュックにしまい込んだりした後、着替えを済ませ朝食を取りに行くことにした。朝のバイキングは結構客が入っていて、若干うんざりしたのだったが、しかし割といいメニューが揃っていて僕は気分を持ち直した。身体に良さそうなヨーグルトや糖分控えめな天然ジュースとか美味しそうな味噌汁などが並んでいる。ヨーグルト一カップと葡萄のジュースを2杯半程飲み、手早く部屋に戻った。そろそろ行こう。


山登り

 

トコトコと駅まで歩いた。15分くらいで到着するはずだ。そこから2時間ほど電車やバスを乗り継がないと行けないが、その山は麓の辺りにキャンプ場もあるらしく、取り敢えずそこで過ごしてみようかと思った。窓の外の風景が物珍しく感じられてバス停で暇つぶしにその様子を絵を描いてみた。だけどやっぱりバスの中なので落ち着いて描けない。まあいいかと道具をしまい、窓の外を眺めていると、気づけばバスが終点に着いたようだった。

登山コースまでは看板があちこちに立っていたこともあり特に問題なくたどり着いた。幼少期以来山には登っていないからか結構肉体的疲労を感じたが、登れば登るほど山の静かさに癒やされてゆくのを感じた。幼少期に水晶を探したり、粘土を採取した記憶が蘇る。あの頃の研ぎ澄まされた感受性を僕は自分の中に取り戻してゆくのを感じた。それに伴い、最早とても都会の喧騒の中にはいられないと思った。湧き水が飲める場所があり休憩がてら地面に腰を降ろし天然の水で喉を潤していた。

目の前の道の向こうには川が流れていて、この森の静けさと川のせせらぎが心地いい。丁度いい大きさの岩にただ座って身体を休めながら空気を楽しんでいると、背中の方で「ガサッ」と 何かが動くような音が聞こえた気がした。「この音は小鳥だろうか?」とちらっとそちらを見ると、茶色い小さな生物が向こうへ駆けてゆくのが見えた。(りすかな? こんな山道付近で見かける事が出来るとは。それともこの山の動物はあまり人から身を隠さないのだろうか?)それから少しして再び登りだした。先程のりすを見かけたので、ついつい小動物の姿を樹上にもとめてしまう。ちらちらと視線を彷徨わせていると地面に転がるどんぐりに気がついた。その一つを拾ってかざして見ると、やはりまたほんの少し子供の頃の鋭敏な感覚が記憶と共に蘇った気がしたのだった。

頂上へ辿り着いたのは昼頃だったが平日なのに子供の姿も見受けられた。結構疲労がたまっていたので座れるポイントを手早く確保して眼下の景色を眺めてみた。やはり山からの眺めはいいなあ。上から見下ろすと街の様子もわかり易いし、この辺りもこうしてみると緑をあちこちに見つける事ができる。鼻から吸う新鮮な空気を感じながら肉体が回復する頃、気づけば子供たちの気配は消えていた。彼等が占領していたベンチに移動して道中で拾った手頃な大きさの石を手にとって見る。石にはやはり惹かれるものがあるな、金槌があれば割ってみたいものだが。石の表面を指先で撫でていたが、そろそろ飽きたので持参した弁当を食べることにした。どうも最近空腹を感じなかったのだけど、自然に癒やされたからか小さめの弁当だったが一通り食べ終える事ができた。再びただ景色や山頂の空気を感じていたが、それにも飽きてきたので頂上には他に何かないのかなと散策してみることした。

雑草が茂っている以外特に何もないが、向こう側の景色はこちらとはまた違う趣があって悪くない。真ん中あたりで立ったまま5分ほど眺めた後ふと振り返ると黒猫が足元に寄ってきてぐるぐると周回していた。最初は誰かが連れてきたのだろうかと飼い主を探すが誰も見当たらない。首輪も着けていないのでおそらくこの山に住んでいるのだろうが、しかし山の中に家猫が生息しているというのは僕は聞いたことがなかった。黒猫は何故か僕の足元で丸くなって休んでいる。餌を求めているというわけではないのかな?単に人懐こい猫なんだろうか?そろそろ下山する気だったのだが、猫と共にその場に座って山の上の青空を漂う雲をぼんやりと眺めていた。しばらく太陽によって光る雲に注目していると、ぴちゃぴちゃと水の音が聞こえたので、そちらを見ると黒猫が水たまりの水を飲んでいた。その水を少しずつ巧みに舐めとる舌の動きに目を引かれつつ、僕も水筒で水を飲むことにした。水分補給を終えると猫はとことこと向こう側降りていってしまった。さて、そろそろ僕も下山するとするか。帰りは下り道なので上りよりは楽だったが、それでも帰りのバスでは疲れのせいかうとうとと眠ってしまい、危うく乗り過ごすところだった。どうも睡眠中夢を見た気がするのだが、うっすらとしか思い出せない。どんな夢だったんだろうなと考えながら次の場所に赴く。昨日のホテルのガイドブックで知った安めの旅館に予約にしておいたのだ。駅を降りて歩いて行けるくらいの距離にその旅館はあった。

 

不思議な旅館

一目見て不思議な旅館だと思った。玄関から見える所に庭園があった。旅館に庭園とは中々粋だなと思いながら受付で名を告げると若い仲居さんが部屋に案内してくれた。歩きながらこの旅館は結構穴場で長期滞在する客は珍しいと話していた。狭めの部屋だったが2階から庭園がよく見えた。中央に岩で囲まれた池があり、その周りには丸みのある庭石が敷き詰められている。よく見ると池には鯉が泳いでいるようだ。いい感じだなと少し良い気分になりつつ、卓袱台でパラパラと来る途中の図書館で借りた美術書を読んでいた。尾形光琳という日本の画家について書かれた本だ。一時は絵描きになることも考えていたのに、日本の画家の事は大して知らないのに気付き、これはちょっと良くないなと思い、偶然立ち寄った図書館で美術書を借りてみた。少し読んでみたところ動物の絵が多く描かれている所が気に入った。鶴の絵を見ていると、一泊したあの公園にも鳶が飛んでいたが、鳥の絵を描いてみてもいいかもしれないなと考えていると、先程とは別の仲居さんが布団を敷きにやってきてくれた。

ごろりと布団に寝転がりながら疲れを癒やしつつ、風呂と夕飯どっちを先にしようか考えていた。浴衣を着る前に外出しようかと、鍵を預けて表通りを散策していた。

するとポロンポロンと心地のいい音色が聴こえてきたのでそちらを見ると、どうやら反対側の店の中から聴こえるようだ。あれは喫茶店なのかなと、店の前まで行ってみると、確かにカフェのようなメニューが書いてあった。

ここで夕食にしようかと店内に足を踏み入れると、繊細な心地の良いオルゴールの音に迎えられた。少し大きめのオルゴールが客席の手前のテーブルの中央に置かれていた。その様子に目を引かれていると、ウェイトレスの女の子が席へ案内してくれた。パスタとサラダのセットを注文した後はさり気なく店内を観察しながら、しかしやはり気になるのは先程のオルゴールだった。あまり客が入っておらず、誰も会話していないため旋律はよく聴こえた。この曲どこかで聴いたことがあるな、それも結構好きな曲だったはず、このバイオリンの美しい音色は何だったかな・・・、タイトルも作者も思い出せない。

水を飲みながら耳を傾けていると、静かな音に心が癒やされ、深い部分が震えるような、なんだか懐かしいような泣きたくなるような気持ちになった。

その内、曲が変わった。先程とは違うがこの曲も恐らくクラシック。だけど今度はすぐにタイトルが分かった。ベートーベンの田園。宮沢賢治が好きだった曲ということで、僕も家にいた頃はyoutubeでよく聴いていたからすぐに分かった。正直なところベートーベンの曲は結構騒がしく感じて、割と敬遠していたのだけど、この田園は好んで聴いていた曲の一つだった。まさに自然からインスピレーションを得たような曲だなあと思いながら、この作曲したベートーベンの気持ちを想像しているといると、料理が運ばれてきた。

くるくるとパスタを巻きながらぼんやりとカウンターで読書をする老人を眺めていた。恐らくはこのカフェのオーナーなのだろうが、西洋の貴族に仕えている執事のような風貌だった。何を読んでいるんだろうと目を凝らしているとカランと鐘が鳴り、客が来店したようだった。老人はふと目を上げて客の姿を認めると、何やら二人で話していた。そして二人で奥へと入ってしまった。残りのバスタを食べながら、あの女の子一人でも大丈夫なのかななどと思っていると、丁度彼女が水を淹れに来てくれた。何だか手を煩わせても悪いなと思ったので、その場でぴったしの金額で会計を済ませ、オルゴールの曲は聴いたことのない4曲目に差し掛かっていたが、喫茶店を後にした。

 

不思議な夢

 

帰り道で冷めた身体を風呂で温め、部屋に戻った後少しのぼせ気味になってしまったので水を飲んでゆっくりしていた。そのままぼんやり時計の針を眺めていると、何となくスイッチが入ったように瞑想したくなったので、浴衣のまま布団の上に座り目を閉じて瞑想を開始した。第一チャクラから順に色を思い浮かべ、時計回りに回転させてゆく。脊髄付近にチャクラを感じながら頭頂の第七まで活性化させ、5分ほど自身が温かい繭のようなオーラに包まれている状態をイメージしていた。そのまま小一時間ほどぼーっとして過ごすのが普段の僕のやり方だった。僕の瞑想者としての経験が浅いからか瞑想していると眠くなってきて布団に潜るのが大抵だったのだが、今日は何故か静かな心のまま眠気はやって来なかった。

一瞬、旅でトラウマが癒やされたせいかなと思ったのだが、どうもそれも違うような気がした。まだ旅を始めて何日かしか経っていないし、もしかしたらこの環境のせいかもしれない。この土地の磁場だったり、静かな旅館の部屋という環境のおかげでこうなれているのかもしれない。ともかく、今ままででの人生の中で一二を争う程静かな精神状態でそっと立ち上がり、冷蔵庫の水を飲んだ。そして軽快に歯をブラッシングして、安らかな眠りについたのだった。

僕は夢の中で白いキャンバスに絵の具を散らせていた。その時、自分が夢の中にいるのにすぐに気がつくことが出来た。明晰夢を見たことが無いわけではないが、就寝前の瞑想のせいか今までの明晰夢よりもよっぽどリアルな夢だと思った。そのまま僕は絵を描くことにした。時には筆で絵の具を塗り、時々筆先を散らしたりするこのドリッピングという描き方は僕がまだ幼少期だった頃に取っていた手法だ。何故この描き方を忘れてしまったのだろうか。半分覚醒半分睡眠のような状態で、自分ではない何かが描いているような感覚がどこかにあったが、絵が完成してみると完成したのは庭の絵だった。僕が庭でキャンバスに絵を描いている絵。その庭では鴨が泳いでいる池があり立派な樹が生えていたり、足元で寝転がっている猫がいたりした。絵を描いている間僕の頭の中にあったのは守られているというイメージだった。自身を虐げる存在から守られているという感覚。絵の中の庭で僕は高い岩に外界から遮られており、僕の許可がなければ誰も侵入できない、誰にも見られない空間がそこには存在していた。

しばしその絵に目を奪われていると、ふと自分の技術に疑問を感じた。

(あれ、僕ってこんなに上手く描けていたんだったかな?)

手の平を見るに、この夢の中の自分はまだ子供のはずだが、最後に絵を描いていた頃の自分よりも上手く描けた気がした。不思議だなとくるりと振り返り辺りを見回してみて驚いた。夢は大抵不思議なものだけど、ここまで驚きを感じたのは久しぶりかもしれない。周囲を見回してみて分かったのはどうも自分が絵に描いていた庭とよく似た場所に居るらしいという事だった。何だろう、ここ?こんな場所は少なくとも僕の記憶にはないが・・・。チラッと絵と今いる庭を見比べてみると、池はあるみたいだが、猫は足元にはいなかった。だけど大きな樹が左の方に生えていたのは絵の通り、というかむしろ絵よりも立派に見えた。風で葉がざわざわと鳴る。こんな樹個人で所有できるものなんだろうか、などと考えながらざらっとした樹皮にそっと手を当てて見た。いつもは特に何事も起こらないのだが、偶然なのか樹上の葉が一瞬光った気がした。

(ん、何だ今の?)

気になったので後ろに下がって上の方を見上げようとしていると、左足が柔らかい何かに触れた気がして驚いて後ずさった。その正体は黒い猫だった。前足を舐めた後僕をじっと見つめている。ふとその猫が先日山の頂上で見たあの黒猫とよく似ていることに気がついた。やっぱり夢だから僕の無意識が反映されたのかな?などと考えていると猫はぴょんと樹によじ登っていった。

(家猫って木登りできたんだったかな?)

まあ、これは夢だから多少現実と異なっていても構わないかと思っていると、猫は驚いたことに時々枝で休息を取りながら、見えないくらい上の方まで登っていったようだった。姿は見えずがさがさと葉を鳴らす音だけが聞こえる。あの猫は一体何をしているんだろう?そもそも何故猫って木に登るんだったかな?ヒョウとかは多分捕食のために樹上にいるんだよね?と思いながら上方を見上げていると首が疲れてきたので、樹によりかかって休むことにした。それから5分後くらいに黒猫はトンと軽やかに地上に着地した。何かを口元に咥えている。コトリと地面に落としたその透明な石をペロペロと舐めて綺麗にしているようだった。僕はその石に非常に興味を惹かれた。何かとても大切なものであるような気がしたのだ。黒猫が石を舐め終わって僕を見上げてきたので、近づいて手にとって見た。透明だが中に何かが混入している。黄色いような青いようにも見える丸いものだった。最初は琥珀のようなものかと思い中に入っているのは生物の化石か何かかと思ったのだが、どうも違うみたいだった。

(何だろうなこれ?)

ちょっと光にかざして見たが特に何か分かるわけでもなかった。石から目を離して黒猫を見るが、彼女は後ろ足で首を描いてあくびをしていた。どうやら、何も教えてくれそうにはない。樹の上にこんなものがあったことといい、猫が登って取ってきたことといい、全く不思議な夢だなあなどと何故か僕は庭の手前の方に歩いていった。植物たちに遮られて見えなかったがそこには家があった。しかしやはり見覚えはない。でも夢の中の自分はよく知っているようでそこにあった白い椅子にもたれて目を閉じた。静かで家の前なのに人の気配は全く感じなかった。

目が覚めると今度は旅館の部屋だった。目覚めてもどこかいつもと感覚が違う気がした。先程の夢の事も割と鮮明に記憶に残っていたが、忘れない内に記録に残しておこうと思った。かばんを探ってみたが、どうもノートが見当たらない。仕方なくスマホにメモを残すことにした。慣れないスマホの操作のせいで、朝から少し疲れてしまったので、そのままお茶を飲んでゆっくりしていると、気づけばそろそろ朝食の時間が終わりそうだった。まだ今ひとつ覚醒しない意識のままぼんやりとお茶を飲みながら、どうしようかなと思っていたが結局朝食をすっぽかして散歩に出かけることにした。外に出ると朝の空気が非常に気持ちよく感じられた。程よい気温、程よい日光の加減、新鮮な空気と静けさ、だけどそれ以上に自身の心の状態が落ち着いているせいかもしれないなと、なんとなく公園のような場所を求めて歩き始めた。道を歩いていても時間帯のせいか人通りはほとんどなくて静かだった。時折街路樹の緑を見上げたり、雲の様子を観察しながら慣れない街を歩く。大通りを真っ直ぐ下がっていたのだが、どうも大学付近のようで、この先には公園はないような気がした。一瞬どうしようか迷ったけれど、少し戻ったところの左の方にパン屋があるのが見えた。少し見てみようかと思い、近づいてみると結構品数がありそうだったので入ってみることにした。棚に並んだパンを一つずつ見てゆくと、アップルパイが新鮮で美味しそうな気がしたので、購入しようとレジの方を見るが誰もいなかった。厨房が窓越しに見えるようになっていたのだが、そこでは女の子が一人で作業をしていた。他に店員はいないのだろうか?どうしたものかなとしばし手持ち無沙汰になっていたが、ふとレジ台に呼び鈴があることに気づいて「チリン」と鳴らしてみた。その少女は僕より少し上くらいの年に見えたが、せかせかと会計を済ませ、パンを袋に入れてくれた。いい店じゃないか、また来れるといいなと思いながら早速どこかで購入したパンを食べようと食事ができそうな場所を探すのだった。

なんとなく旅館の部屋で食べるのは気が引けて、結局歩きながら食べることにした。パンは作られて間もないのだろう、生地はサクッとしていて中のりんごも柔らかくて温かった。そういえば、朝風呂に入ってみてもいいかもしれないけど、何時まで空いているんだろうな。受付で鍵を受け取り、浴場まで行ってみるとまだ一時間ほどは入れるみたいだったので、部屋に戻って、少しだけお茶を飲むとタオルを持って風呂に入りに行った。食事を済ませたのなら次は風呂でさっぱりして心地のいい朝の空気を感じたい。

この時間帯なのに脱衣所を見ると、何人か入浴中のようだ。湯気に視界を覆われながらそろりと浴場に足を踏み入れると、2人の男性がいた。一人はお湯に浸かって足を伸ばしてくつろいでいた。もうひとりは髪を洗っている外国人だった。さっと簡単に体を洗い湯船の男性から距離を取り、少しだけお湯の暖かさに包まれていた。露天風呂の方から朝の日光が少しだけ差し込んできていて、寒くさえなかったら入ってみたいものだったが、今日の所は辞めておこうと判断した。

部屋に戻り、水で体を冷ましながら今後の事を少しだけ考えた。取り敢えず一週間の宿泊料を払っているが、もう少しここで滞在しながら情報を集めてみてもいいかもしれないな。

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