静悟の文学的空間

小説、読書感想、宮座賢治などについてのブログ

ライトメモリー

 

失われた記憶

どこだろう、僕の居場所は。なぜ僕はここに存在しているのだろうか?思い出せないくらい遠い記憶が僕の中には確かにある。

縄文人古代人であった時のはるか昔の過去世の記憶が僕の中には眠っているのだろう。自然の中で硬い土の上で眠っていた時の記憶が僕の体には確かに存在しているはずで、だから僕はこのように路上で眠ることも出来るはずだと自分に言い聞かせつつ寒空の下でなんとか睡眠をとっていた。11月の冬は結構冷える。だけどそれでも拾った新聞紙を体にかけて後はただ自前の上着、それでなんとか寒さを凌いでいた、早く翌朝になったらいいなと思いながら。

いつの間にか眠っていらしい。小鳥達の鳴き声で目が覚めた。ようやく待ちに待った朝がやってきた。とりあえずまだまだ寒さが体に残っている。11月の寒空の下、僕はストレッチとジョギングで体を温めるのだった。何とか昨夜はやりすごした冬の路上だったけど今晩はどこかに宿を取りたいから早目に情報を集めに出かけようと思ったのだった。僕のような一文無しでも泊まれるようなところを探そうと。だけどそれよりも大切なのは僕の記憶、失われた記憶を取り戻すことだ。本当に何故自分のことが何も思い出せないのだろうか。僕は今20歳で生活に必要な情報くらいは覚えているのだけど、僕自身がどういう人間で、どんな子供時代を過ごしたのかさっぱり忘れてしまっている。これは忘れてしまったままでいたほうがいいということなのかな?とも思う。記憶のことが気になる、取り戻したい。だけどそれと同時に記憶が戻った時に自分がどうなってしまうのか不安な気持ちも同じくらいあるのだった。そのようなことを考えながらトボトボと今夜の宿を探し歩いていた。まずどこかの求人に応募するというのは難しそうだと早い段階で気づいた。僕は自身の経歴も何もわかっていないのだから。求人雑誌を片手に公園のベンチに座ってどうしようかなと悩みながら鳩の群れをぼんやりと眺めていると一人の老婆に話しかけられた。不思議な人だった。杖をついているのだけど眼光はしっかり灯っていて鋭い目をしていた。

「仕事を探しているのかい?」

「ええ、まあ」

老婆の鋭い眼光に内心ドキドキしつつ僕は自身の内情をぽつりぽつりと話し始めた。どこか遠い世界にでも行きたいという心境、記憶を失っていることまであまり人に話すことではないと思いながらも、老婆の不思議な能力で僕の心の扉をこじあけられたかのようだった。一通り事情を説明し終えるとこの不思議な婆さんは「そうかい、それは大変だったねえ」と僕を慰めてくれて、思わず涙ぐんでしまいそうだった。僕のそんな様子を心配気な繊細な目で僕を見つめてくれた。差し出してもらったテッシュで僕がひとしきり涙を拭い終えると、彼女は一切れのメールアドレスが書かれた紙を僕に渡すのだった。そして黒いスマートフォンを同時に渡した。ゆっくりとベンチから杖で体を支えながら立ち上がりながらこう言った。

「そこへ行ってみるといい」とだけ言い残して。最後まで僕を見るお婆さんの心配そうな目が印象に残っていた。

しばらくお婆さんとの会話の余韻に浸りつつ、泣いたことで気持ちもリセットされた所でスマートフォンをしげしげと眺めた。何故あのお婆さんは僕にこのようなものまで渡してくれたのだろうか。取りあえず書かれたメールアドレスに不慣れなスマホ操作に手間取りつつも、何とかメールを送信してみた。なんて送ったらいいのかもわからなかったけど、とりあえず「今晩の宿を探しています」とだけ正直に打ってみた。その後30分くらいだろうか、鳩にポップコーンを与える少女の様子をぼんやりと眺めたり、足元に餌を求めて寄ってくる鳩の体を撫でたりしながら過ごしているとピロンとスマホがメールの返信を告げた。「どうぞ、いつでもおいでくださいね」とメールにはただこう書かれていただけで後はグーグルマップに場所が表示されているだけだったけど、不思議な程僕は安堵感に包まれていた。ここに行けばなんとかなるのだろうと直感で理解できたのだった。

親切なお姉さん

地図を片手になんとかたどり着いた場所はマンションの一室だった。緑のある中庭となかなかに高そうな小綺麗な建物に想像と違っていた分少しの間呆気に取られてしまった。503という部屋番号を押すと若い女性の声が返ってきた。「どうぞ、お入りくださいねー」と気軽な風な口調で。やけにゆっくりと感じるエレベータの中で想像が色々と巡っていった。この部屋にはどんな女性が住んでいるのだろう?彼女は僕を助けてくれるのだろうか、この寝泊まりする場所がないという苦境から救ってくれるのだろうかと。

部屋のドアの前でインターホンを鳴らすとガチャリと扉が開き20代くらいの若い女性が現れた。

「あ、こんにちわ」にこやかな笑顔だった。顔をくしゃっとしたような破顔という表現が似つかわしいようなそんな表情。非常に美しい女性だった。僕よりは年を取っていそうだけど、まだまだ若いこの女の人に包容力を感じさせて、この人に抱きしめられたいと思った。

案内された室内は小綺麗な空間だった。至る所に観葉植物たちが置かれていて、アロマの匂いが漂うお洒落で掃除が行き届いているのが見受けられ、彼女の趣味の良さが伺えた。こんな場所に汚れた自分がいてもいいのかと恐縮してしまった。

「寒そうだね?大丈夫?」

この時僕は初めて自分が寒さに参っている事に気がづいた。彼女の優しさに涙が出そうになった。差し出してもらったハーブティーをすすり、僕は不思議な程自然に自分の現在の状況を素直に吐露していたのだった。記憶を失っていること、今晩寝泊まりするところさえないこと、お金を全然持っていないことなど。

「ふむふむ。」

彼女はとても熱心に聞いてくれた。お姉さんの名前は御幸というらしかった。こんなどこの誰とも分からない男の事情を何故こんなにこの人は真剣に聞いてくれるのだろう?

「それじゃ、しばらく家にいるといいよ、大丈夫部屋は余っているから」

本当にそう言ってもらえるとは思わなかったけどなんてありがたいのだろうと思った。僕はあのお婆さんとの関係を聞いてみたかったのだけど、なんとなく遠慮して聞きそびれてしまった。それからは彼女の勧めに従って風呂に入らしてもらった。一晩で汚れた体を清潔にする必要がある。

十分に丹念に体の汚れを取り除くと自分でも鏡を見て見違える程綺麗になったと思った。

「あら、すごく男前じゃない」

御幸さんの称賛がこそばゆくてしかめ面をしてしまった。

「それじゃ、とりえず今日はゆっくり休みなさい。疲れてるはずだから」

言われてみて初めて気がついたのだが僕は確かに相当疲れていた。昨日も十分に休息が取れたとは言い難い。用意してもらった部屋でその日はぐうぐうと寝入ってしまった。

改めて翌朝僕が今後どうするつもりなのか御幸さんと話し合った。御幸さん自身は謎めいた女性だったけれど多少は彼女の事も聞かせてもらえた。彼女はフリーランスの作家のようなことをしていて、その収入で生活しているらしい。彼女は自分の仕事を手伝ってみないかと申し出てくれた。どのようなことをしたらいいのかと聞いてみると、何も難しいことはない、ただ書類を纏めたり、出版社とのやり取りを仲介したりするくらいらしい。ぼくは二つ返事で引き受けたのだった。それからは穏やかに時間が過ぎていった。女性との二人暮らしだったけどそれ程問題は起きなかった。彼女はお風呂場やトイレなど気をつけないといけない場所は前持って教えておいてくれたし、ぼくもそれをできるだけ守っていたからだ。ただ楽しく彼女の仕事を手伝い、暇な時間は内省の時間に当てた。彼女はぼくに瞑想の楽しみを教えてくれたのだった。最初はチャクラによる瞑想を教えてもらったのだが、ぼくには難しくてすぐには出来なさそうで、単に何もせず座っているという方法をまずは選んでみた。僕は本当にいつも思うのだけど、なぜここにいるんだろう?僕は何者だ?その答えはまだ見つかっていない。だけど瞑想の時間を取っているとなんだか思考が研ぎ澄まされるのを感じることは出来るだった。僕にとってはそれはとても大切なことだった。彼女のライターの仕事を手伝う、内省の時間、そして共に食事をする、彼女は非常に料理が上手で僕はいつもとても食事に満足感を得ることが出来ていた。僕は多分御幸さんを母のように姉のように思っていたのだと思う。そして御幸さんも僕を弟のように思ってくれているのではないだろうか、そんな風に感じる瞬間が何度もあった。彼女との生活はとても快適で時々ワクワクするようなことがある。そんな感じで日々穏やかに過ぎてゆくのだった。

御幸さんのヒーリングについて

ところで御幸さんはヒーリングのような事も副業のような形で行っていた。僕もここを訪れた当初に多少施してもらったけど体が温められて心地よかった。僕にはよくわからないが、相談者が来ているところからして馬鹿にならない腕前なのだろうと思う。彼女に手を当ててもらって帰ってゆく患者さん達は皆うれしそうだった。時々助手として僕も携わらせてもらうことはあったけど、今の所僕にはヒーリングの能力など皆無だ。だけどその不思議な力についてはとても興味があったので、ある日タイミングを見計らって勇気を出して頼んでみた。

「あの僕にヒーリングを教えてもらえないかな?」

そう言葉を発した僕を御幸さんは不思議そうな顔でコテリと首をかしげた。

「なんだ、興味があったの?それなら早く言えばいいのに」

そしてその日から夕飯の後御幸さんによる個人レッスンが始まった。拍子抜けするほど呆気なく僕は御幸さんによる指導を受けることが出来たのだった。と言ってもそれ程難しいことを行っていった訳ではない。最初はただ彼女が流してくれるオーラを感じるところからだった。それは普段助手として傍らで感じていたせいか特に問題なくスムーズに暖かく心地良い気の流れが体内を巡ってゆくのを感じることが出来たのだった。最初の頃はぼんやりとして眠くなってしまうことも多かったが、そんな時でも御幸さんは優しく眠ってしまってもいいのよと言ってくれた。まるで母親に抱かれている赤子のような気分になれる、それがすごく幸せな感覚でいつまでもこのままでいたいような気持ちになってしまうのだった。そんな幸せな毎日だったけど、ふと何故かこのままここで御幸さんの世話になっていてもいいのかという疑念が心の中に生じるようになった。別にこのままでも僕は幸福なのだけど、何故かそれではいけない、自立したほうがいいという心からのサインが徐々に首をもたげてきた。ひとしきり独りで悩んだ後僕は素直に御幸さんに内心を打ち明けてみた。

「あの、僕ここでいつまでも世話になっていていいのかなと思って・・・」

御幸さんは不思議そうに首を傾げて夕飯のシチューを頬張りながら

「別に私はいつまででもいてくれていいよ。君との生活は楽しいしね」

と明るく言ってくれた。その事自体はすごく嬉しかったのだけど、その分僕は自分が駄目な人間のような気がしてなんだか涙が出そうになってしまった。

「なんかこのままじゃ駄目な気がしてさ・・・・」

僕は無口な性格でいつもこんな感じの受け答えだったけど、特に御幸さんは気にした風な様子はない。

「そっか。そうだねー」

僕の内心の深刻さに反比例して御幸は呑気に頬に指をあてていた。

「じゃ、このあたりで静君も独立しちゃう?」

御幸さんは僕を静と呼ぶ。それは僕の本名ではないのだろうけど、二人で決めた僕の呼び名だった。

「え?独立?」

予想外の返答に一瞬意味がわからなかった。独立ってどういう意味だろうか?

「だからさ、静くんも結構ヒーリング使えるようになってきたじゃん。だからこのあたりで独り立ちしてみるつもりない?」

あっけらかんと彼女は言ってくれたけど、そんなことはとても出来そうにないと僕には思えた。僕なんてただ御幸さんの傍らでごく簡単な手伝いくらいしか出来ていないのに、たった独りで患者さんを癒やすなんて無理だと思った。

「大丈夫よ。簡単簡単。静くんなら出来るって!」

そんな御幸さんの言葉に後押しされる形で僕はヒーリング事務所なんて御大層な代物を掲げることになったのだった。最初はこんな事しでかして家賃の支払いとか大丈夫なのかとか、絶対客なんて来るわけないとかドキドキハラハラしてしまったけど、多分御幸さんが紹介してくれたのだろう、チラホラと知り合いのおばさんなどが客として来てくれて不思議と何とか支払いが回るくらいには事務所として運営は出来たのだった。僕にはその事よりもわざわざ自分を頼って人が来てくれているという事実そのものが何よりも嬉しいのだった。自分では大して感じる事は出来なかったけど僕の手からも多少は気のようなものが出ているということなのだろうか?少しだけ僕は自分に自信が持てた気がした。

自分自身に手を当てて気を流し体を癒やすのもいいが、他人に奉仕という行動そのものが僕の精神を救う。自分ではなく他者のための行為が僕の心をポカポカと暖かくさせて癒される。金銭的な報酬もそれはそれであってもいいものだけど、僕の場合それよりむしろこの精神的な副産物の方が余程報酬になっているなと実感する、そんな素晴らしい毎日を過ごすのだった。

記憶を取り戻すということについて

そんなある日のことだった。ふとした瞬間僕はいつの間にか自分が記憶を失っていることを今の楽しい毎日のおかげといっていいのかすっかり忘れてしまっていることに気がついたのだった。別に忘れたままでも構わないのではないかとも思う。だけどやっぱりそこには大切なものもあるはずで、ある程度徐々にでもいい、少しずつ怖いけどがんばって思い出してみようかと思った。でも出来たら楽しい思い出だけにして欲しい。僕の楽しかった記憶、子供の頃を思い出したい。自室の柔らかい椅子にゆったりと座りながらそう念じてみた。すると不思議な事にぼんやりとだけど一瞬子供の頃の自分がうさぎを抱きしめている光景が見えた気がした。何となくだけどその暖かさ柔らかも覚えている。やっぱり体は覚えているんだなと改めて実感した。僕の体には今までのあらゆる記憶が宿っている。それはとても重要なことなんだろうな。あまり認めたくはなかったけど思い出したくない記憶もあるのだろうけどでも楽しく日々を過ごしていた記憶もこの肉体にはまだまだ眠っているはずでそれを是非思い出したいと思う。もっと思い出せないだろうか、出来たらもう少し手軽に。僕はゆっくりと深呼吸してより深く椅子に腰掛けながらリラックスしてみた。吸うよりも吐く息の方を長くして深呼吸を繰り返すとだんだん思いだすのだった。目を閉じていると脳裏に記憶がイメージとなって蘇ってくる。その中には確かに思い出したくないものもあった。転んで怪我をしてしまった失敗体験、人に強く言われて辛かったであろう記憶、大嫌いな人を恨んだ経験、そんなものが多数蘇ってきてしまったけど、逆に動物に触れた時の優しい気持ちや美しい植物や星を眺めた時の感動、感動的な音楽に魂が震えた時の心底生きていてよかったと思えた時の事なども同時に思い出せた。そして思い出すことで僕の体も心も楽に暖かくなっていて、やはりこの事は今の僕に必要なことなんだなと改めて思うのだった。