静悟の文学的空間

小説、読書感想、宮座賢治などについてのブログ

孤人物語 完

紫と青を混ぜて描いていた。絵を書けば何かが変わるのではないかと思った。鴨川と大文字山の森を描いていた。何十枚も描いて、何となく創作を中断し、料理を作ることにした。豆腐と魚の味噌汁をさっと簡単に作って、じいちゃんのいなくなった座卓で食していた。あれから何十年経つのだろう。あの頃の記憶は僕の中でまるで封印されかのように全く思い出せなくなっていた。結局豆腐を少し食しただけで、食べるのを終えた。暑いので冷蔵庫にしまう。鍋を洗って、静かに活字を追っていた。

読み終え、パタリと単行本を閉じてちらっとカレンダーを見た。このカレンダーが今年のものならば、今は2021年らしい。へえ。あれから17年経つのか。

布団に潜り込んので、天井を見ていた。久しぶりにあの頃の夢が見れるといいとおもいながら、眠りについた。

何となくかろうじてじいちゃんが卵焼きを作るが凄く上手かったというのを思い出した。何となく目が覚めて早々に卵焼きを作っていた。

完成したものをかかげて、しげしげと観察しつつ、はしっこだけかじってみる。悪くない味だったけど、あの頃どんな味だったのか全く思い出せなかった。結局一口でやめてしまった。最近ロクに食事を取っていない。冷蔵庫に料理だけがたまってゆく。

昨日の絵の続きを描いていた。何となくシャガールに少しタッチが似ている気がした。じいちゃんも絵を描くのが好きだった。それから描いていて、気がつくと夕方になっていた。

本当に何となく、じいちゃんと食した料理つながりで二人でカレーを食べた事を思い出した。あのお店は今もあるのだろうか。何しろ17年ぶりだから、既に閉めてしまったかもしれない。戸締まりをすませて、行ってみることにした。

結果として今も変わらず営業していた。凄く懐かしい。入ってみた。内観は多少変わっているものの、あの頃の面影を残していた。水を運んできた女性はあの頃からいたのだろうか。全く思い出せない。

運ばれてきたカレーを食べた。やはりどんなカレーだったのか今ひとつ思い出せなかったが、何となく懐かしい気がした。不思議だった。近頃ではいつも一口しか食べれないのに、全然記憶にもないこのカレーを気がつくと完食していた。これでしばらく、何も食べなくても大丈夫かなと少し安心しながら、チラッと窓を見ると、山が見えた。登らなくなってから何年経つのだろう。

記憶が消えた。何十年も書き続けていて、気がついたら僕を苦しめていた忌まわしいな記憶のすべてが手からこぼれ落ちるようにどこかへ行ってしまった。孤独。それこそが、僕を癒やしたのだった。何十年もの創作が僕の心を癒やしてくれた。僕とじいちゃんとの物語は創作を交えながらも、かすかな記憶と混じり、僕を内部から浄化した。

そしていつも通り、この日も夢中でタイプして気がついたら眠っていた。

目が覚めて異変に気づいた。心臓に違和感を感じる。執筆していても、どんどんおかしくなるようだった。時々ズキズキと痛んだ。

久しぶりに布団で寝た。目を閉じながら何となく思った。そういえば、40年前から書き続けて、ロクに体の事を考えてこなかった。それにしては、よく持ったものだと思うが、そろそろ限界なのかもしれない。子供の頃から何度も死のうと思っていた僕がとうとう天に召されるらしい。そう思うと、わくわくした。

翌日には確かに昨日にも増して異変を感じた。起き上がるのにも多少ふらつきを覚える。

タイプしながらお茶を飲んだとたん、吐いた。胃の中には何もなかったので、大したことはなかったが、心臓と嘔吐って何か関係があったかなと思いながら、何となく鏡で見てみると、腫れていた。昔何度も刺した後が変色している気がした。

まあいいやと、変わらずにパソコンで物を書いていると、意識を失ったらしい。ただ、畳の感触だけを覚えていた。

うっすらと眼を開けると、天井が見えた。パソコンは変わらず起動している。そうか、タイプしていて、気絶したんだった。心臓が激しくいたむ。これは死期が迫っているのかもしれない。起き上がろうとしたが、立てなかった。体に力が入らない。それから何時間か経った。相変わらず起き上がる事は出来ない。

鼓動の異常な速度を感じた。ああ、死ぬんだなと思った。肉体の異常で最早まともに思考することができない。だけど、走馬灯は見なかった。ただ一つ爆音を立てていた心臓が緩やかに止まってゆく中で、視えたのはあの頃の夏にじいちゃんと川でヤゴを捕まえた記憶だった。僕は笑っていた。じいちゃんも笑っていた。確かにあの夏は存在していた。消えてなくなったわけではなかったんだ。それだけで僕は満ち足りていた。生きて良かった。