静悟の文学的空間

小説、読書感想、宮座賢治などについてのブログ

孤人物語 僕という人間

天涯孤独

いつものように自室のゆったりとしたソファに深く沈み込んで何時間も集中して本を読んでいると、目の前の山積みの書物から一冊がドサッとこぼれ落ちた。何が落ちたのかなと思って見てみると、漱石のこころだった。こころは漱石の中で一番気に入っていた小説だったのだが、昨日で飽きてしまった。

僕に両親はいない。身寄りも知人もいない。幼少期の頃は母親がいたのだが、父は最初からいなかった。離婚したのか、死別したのか、僕も特にその辺の事情を知りたいとは思わなかったし、母さんも何も話さなかった。

母さんは、僕がまだ幼稚園の年齢くらいの時は心身健やかで、よく色んな所に出かけたものだった。だけど僕が9歳くらいの頃には体調を崩していて、部屋で寝たきりになっていた。その頃から僕はよく本を読むようになった。学校にも行ってなくて、外に出るのは毎日の散歩くらいだったから、家にいる時間が長かった。その時間を埋めるのに丁度よかったのが家にある膨大な蔵書だったのだ。母さんが揃えた一万冊を越える蔵書がリビングと母さんの部屋に置いてあり、幼少期から僕は家の本を片っ端から読んでいった。17歳の今でもまだ全部は読み切れていない。

僕が15の時に母さんは死んだ。元々体の弱い人だったんだ。ずっと寝室で寝ていたから、母さんの生きていた頃から僕はほとんど一人暮らしみたいな状態だったけれど。そして母さんが死んでしまった後、僕は完全に一人きりになった。残ったのは母さんが愛した本達とこの家だけだった。

朝、7時に目が覚めると、枕元から手探りで文庫本を手にとって読む。徐々に体と脳が目覚めてくるまで30分ほどかかる。1時間程で文庫本を中程まで読み終えて、キッチンに紅茶を淹れにいった。ポットから紅茶を何杯か注いで飲むと、体が温まり、本格的に精神が覚醒しだす。これが9歳から続けている僕のモーティングルーティンだった。

さて、今日は何を読もうかと、書物を手に取って物色する。それにしてもよくこれだけの数を揃えられたものだと思う。母さんは著名な学者だったから、これくらいの量は読んでいて然るべきだったのかもしれないけれど。

昨日で文学への渇望は消えさってしまった。今日からは仏教書を主に読んで宗教研究に励んでいこうと思う。空海真言密教、釈迦や仏教誕生の流れに関する本、後は一応、日蓮親鸞も何れ読もうかと思っていた。取り敢えず朝から余り難解過ぎるものを読みたくなかったので、山折哲雄の「霊と肉」を読むことにした。タイトル通り霊能に関する考察に結構なページ数が割かれている。思った通りだった。僕は自分には霊感がないけど、シャーマンとか原始人とかスピリチュアルな話は大好きなのだ。

丸善書店

次第にもっと色んな本が読みたいという気持ちがどんどん膨れあがってきた。そうだな。今日は天気もいいし、久しぶりに本屋に出かけようかな。

思い立ったが吉日。着替を済まし、念の為、リュックに着替えと水筒を入れて、出発した。京都で一番大きな本屋であるところの丸善書店へ赴くことにした。

有料の駐輪場に自転車を停めると少し汗をかいていた。トイレの個室で持ってきたシャツに着替え、ついでに水分補給も済ませて、改めて書店へ向かった。

丸善の室内はエアコンが効いていて心地よかった。文庫本コーナーで買うべき本の表紙をを時々IPHONEで撮りながら、頭の中にもリストアップしてゆく。最初に仏教関連の棚を周り、何冊かカゴに入れて、神話コーナで、ケルト神話の本をまた数冊カゴに入れる。後は植物の雑誌をいくつか買った。後はネットで注文しようと思って、見落としがないか棚を順に回っていった。宗教学、心理学、人類学、植物学、精神世界。

うん、今日はこんなところでいいかな。歩き疲れたので書店内のカフェで少し休憩することにした。ワッフルと紅茶をオーダーして、買った内の一冊を読む。植物に感覚があるかというテーマで書かれたこの本はネット上では結構評判が良かったので、気になっていた一冊だ。今日手に入れる事ができてよかった。平日の日中だからかあまり人は入っていない。おばさんの喋り声は時々聞こえてくるけど、出来るだけ人を避けた一角に座ったので、読書に集中するのに差し支えはなかった。

この本によると、植物にも人間と同じように好き嫌いがあったり、人が触れるとストレスで萎れてしまったり、モーツァルトの音楽を好んだりするらしい。僕が一番興味を持っていたのは、植物と会話が出来るかどうかということだったのだけど、残念ながらこの本にはそこまでは書いていなかった。ネット上のとある記事でそういう話を聞いた事があったんだけどな。僕は家の庭で咲いているであろう花々達を思い出していた。一応水やりの時に軽く話かけたりしてるのだけど、他にも植物との会話を可能にする上で何か有効な術があるのだろうか?

僕には生まれ持った霊感や超能力はない。残念ながら今の所も発現する兆候は見られない。だけどそういう事にとても興味があった。そのために宗教の本を読み漁っていると言っても過言ではなかった。

以前に、とある能力者の人に、君は相当の感受性の持ち主だから何れ視えるようになるかもしれない、と言われたことがある。僕はその事をずっと誇りに思ってきた。例え、住みづらく生きづらいこんな世の中でも希望が見えた気がした。こんなに苦しい思いを抱えているのも決して無駄なことでないのだという希望が。

帰り道、自転車を30分以上も漕いでいるとさすがに初夏の暑さに参ってしまう。次はタクシーにしようと決意した。家に着くと、荷物もそのままにシャワーを浴びた。

サッパリしてお茶を飲みながら庭の植物たちを眺める。彼等は僕の事をどう思っているんだろうな。思えば、園芸というのは植物にとっては残酷な事なのかもしれない。何故なら自然に生きているはずの種をこんなに小さな鉢に限定させてしまっているのだから。

帰宅して一段落したので、遅めの昼食を摂ることにした。ほうれん草のお浸しと、豆腐とワカメの味噌汁で簡単な食事を摂った。僕はごく簡単で手短に出来る料理しか作らない。手間をかけてまで美味しいものを食べたいとは思わないのだ。食べ終えて食器を洗い、歯を磨いて、寝るまで本を読んで過ごすことにした。僕の最近の毎日は大抵こんな風に過ぎてゆく。